何もしない一日

今日は何もしない一日だった。

土日を無駄に過ごすなんて持ったいないから、何かして過ごそうということを数か月前は思っていたのだけれど、最近は何もせずダラダラ過ごして終わる一日も増えてきた。

人と会う頻度がずいぶん減っている感じがする。

生活が退屈になった気もしてしないし、出費も減ったのだけれど、気持ち的に保守的になってしまっている気がして、これはよくないと思う。

何もしないと、何もしない癖がついてしまいそうなので、そろそろまたアクティブ気に入ろかな、なんて思う今日だ。

春を感じる

東京で、初めての春を迎えます。今日は最高気温が20度を超えて、風は強いけど日差しがさしてとてもポカポカした日でした。夜、外を出歩くと、芽吹きの香りと言いますか、季節の変わるにおいがして、でも雪解けの香りはしなくて、なんだか秋みたいだな、って思います。吹き付ける秋風みたいな春風を感じながら、なんだか寂しい気持ちになって、泣きそうになるのです。

自分でコントロールするということ

近所の市民体育館のランニングマシンで走る。久しぶりに体を動かす。時速10キロで30分、行けるだろ、と思って走り始める。同じペースで動く床をひたすら蹴り続ける。10分15分と過ぎて、辛いまでは言わないが、頭がぼーっとし始めて、気だるさが湧いてくる。あー全然時間が過ぎないな、とマシンの時計を眺めながら思う。20分を過ぎたあたりから、息が上がり始めてきて、いよいよ止めたくなってくる。相変わらずに動き続ける床に、走らされてるような気分になってくる。すぐにでも止めたいと思い始める。ペースが辛いのではなく、乱さず同じペースを続けるのが辛いのだと思うんだよ。自分のペースでやれればもう少し自由にやれる気がして。自分の意志が通用しないことが辛さにつながる。これっていろんなことに言えるんじゃないかなあ、なんて走りながら思うのでした。そして、走り終えて、ほんのちょっとの達成感だけを得て、帰りに食べる天下一品のこってりはめちゃくちゃうまくて明日も頑張ろうと思うのです。

ミリより小さい世界

今日、ボールペンが壊れた。

ゼブラのsurariなのだけれど、インクの出の良さが気に入っていた。

ボールペンの芯はインクが残っていて問題なく使えたので、他に使っていたボールペンと芯を交換した。

交換したボールペンとは芯の長さがやや違っていたので、ハサミで切って長さを調節した。

これがすごく難しくて、ちょうどの長さじゃないと、うまく芯が出ない。

1ミリよりこの誤差が1ミリよりも細かいくらいの誤差なのだ。

10数分の時間をかけて、ようやく上手い長さに調節できた。

身近なものを見渡して、市販のほとんどのものが、誤差数ミリ以内で作られているな、と気づく。

感慨深いような、不思議なようなよくわからない気持ちになる今日だった。

東洋思想

自分の行動指針、哲学ってなんだろう…

…持っていなかった

 

他の人はどうしてるんだろう

 

一つ行き着いた先に東洋思想があった

具体的には四書五経などに学ぶことらしい

 

今日早速、『論語』を手に取って読んでいたが、感じたことがいくつかある

 

1.具体的

わかりやすく、親やすい

すんなり納得して受け入れられるところが多い

行動の基本は徳、親や目上の人を敬うことのように感じた

あと、一節が短いから読みやすい

2.本家の人は?

中国の人たちは四書五経を読んでないのかな?

こういう本は日本にはない気がする

3.日本人の思想ってなんだろ

仮に四書五経が中国の人の、聖書が西洋人の考え方の根底にある書物だとしたら、

日本人の行動の規範は何に学んできたのだろう?

 

次なる興味を抱きつつ、四書五経を読み進めて行くのであった

サトー

 

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ハラ

これ、すごくわかる。

新渡戸稲造の『武士道』の冒頭で、新渡戸稲造が「宗教がないのに、どうやって道徳を教えるのか」と西洋人に聞かれた話がある。

この話は、僕にとっては結構衝撃的で、宗教って神を信じるとか信じないとかの話じゃなくて、人が生きる上での行動規範なんだってことに気づかされた。

日本人の行動規範が明文化されていないという点では、明治時代あたりから変わっていないのだろうな、と思う。

で、みんなどうしてるか、っていうと、なんとなく生きてるんじゃないのかな。

法律で決まってることと、家や学校で教えられたことが全てで、それ以外のモノサシを持ってる人が少ない、って感じてる。

それで、なんとなくみんな、どう生きるのが正しいかわからないんじゃないか。

 

中国人、韓国人あたりのいわゆる東洋の人がどういう風に考えているかは、わからない。

キリスト教イスラム教みたく、聖書があって、お祈りをしてって文化じゃないとは思うんだけど。

 

日本人の生き方として、そういう誰かが作った教典みたいなものに頼らないでこの辺にどう折り合いをつけるためには、いかに一つ一つの物事と向き合って、一つ一つにルールを設けていくことなんじゃないかな。

そうすることで、自分の中でモノサシとなる軸ができて、これはやっちゃだめで、これは積極的にやっていく、っていう方向ができるはず。

そうすると、ちょっとは楽に生きていけるって思うんだ。

心頭を滅却すれば火もまた涼し

意味: 心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなること。

 

今はひたすらに無の状態

心を殺して嵐が過ぎるのを待つだけだが、

本来の意味はきっと違うんだよな

「ピンチはチャンス」

「いまの努力が明日の自分を作る」

的な発想を持てってことかな

 

 

と思ったら違ったわ

「無念無想の境地に至れば、火さえも涼しく感じられるということから。」

平たく言うと無心になることだって

 

めちゃめちゃ体現してるじゃないか

サトー


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ハラ

自発的に心を無にする→苦痛を感じなくする

ではなくて

自然的に心が無になる→苦痛を感じなくなる


ってこと?

 

CDレンタルショップに走った高校生が大人になった。


MusicFMを使っている高校生が大人になっていく。
https://note.mu/mihiro_blue/n/n8da9b360405a


SpotifyASIAN KUNG-FU GENERATIONのホームタウンのアルバムを聞きながら、上記の記事を読んで僕も何か書きたくなったので、何を伝えたいでもなく、着地点も考えずにこれを書いている。
ナルトのOPはアジカンの遥か彼方の世代の25歳なのである。高校2年生の17歳から8年も過ぎてしまったことに驚きを隠せない。
アジカンの好きなアルバムは、うーん、迷うなー、やっぱソルファかなあ、ファンクラブやマジックディスクみたくちょっと緩さのあるアルバムも好きだなー。

 

最近は、スマホの普及でずいぶんシェアが落ちてるみたいだけど、僕が高校生だったときは、ガラケーが主流だった。
だから音楽を聴くのは、もっぱらiPodWalkmanガラケーに音楽を入れるか、あと無名メーカーのMP3プレイヤーとかもあったなー。
違法ダウンロードについては、その頃からあったのを覚えている。
でも、MusicFMみたいな手軽なものはなくって、パソコンで怪しいサイトからMP3をダウンロードしてくるとかトレントを使うとか、
多少アンダーグラウンドな知識がある一部の人が使っていた印象だ。
ただ、違法アップロードのYouTubeとかニコニコの音楽動画なんかは、今よりももっと溢れていたような覚えがある。

 

僕の話をする。
中学時代、BUMP OF CHICKENRADWIMPSにハマりこんでいた僕は、高校になってFACTやPay Money To My Painなんかのハードロックにハマっていた。
僕の周りは、おんなじように、ロキノン厨とあの頃は呼ばれていたようなサブカル好きの友達に囲まれていた。
高2のときに大型のTSUTAYAが通学のハブステーションにできた。
できてすぐに行ってみよう、とうことになって電車通学をしてる仲が良かった友達3人で新しくできたTSUTAYAに入った。
そこには何十もの棚が壁になっていて、所狭しとCDが一面並べられていた。
情報の山に押しつぶされそうになりながら、溢れるくらいワクワクを感じていたのを覚えている。
僕らは4枚で1週間1000円のCDを、お互いそれぞれの好みにちょうどいい枚数に合わせて借りて、みんなでシェアしていた。
持って帰って自分がパソコンに取り込んだら、次の日に学校で友達と交換する。
そして、一週間が経って返却期限になったら、また新しいCDをみんなで借りに行くのだ。
CDショップは僕らにとってのコミュケーションのツールになっていた。
あのアルバムがヤバかったとか、あの新譜はクソだとか、言いながら過ごした時間は今思えば心地よかったなあ、と思う。
あのときCDショップ大賞をとったandymoriの『ファンファーレと熱狂』は最高傑作だと、今でも思ってる。
今も実家にはレンタルCDを焼いたCD-Rが何百枚も残っている。今はもう聞かないけれどどうしても捨てられる気がしない。

 

僕の高校時代も、周りに、違法ダウンロードでお金を払わずに音楽を聴いてる人たちがいた。
ネットでただで音楽がダウンロードできるんだぜ、とか自慢めいた言い方をされて不快だったこともある。
実は、僕も高校入学当初までは、違法ダウンロードで音楽を聴いていたことがある。
ただ、とても悪いことをしてる気分で、周りの誰にもそのことを話したことはなかった。
だから、音楽にお金を払うことは僕にとって気持ちを楽にしてくれた。
(あと、PCがウイルスに晒される脅威もなくなったし、糞見たいなADSL回線でダウンロードをする必要もなくなった。)
何より、音楽を作っているミュージシャンに対して胸を張れることが大きかった。

 

この問題ってすごく難しい問題で、簡単に解決できる問題じゃないと思っている。
インターネットの時代で法律が国を超えちゃったりする。
違法ダウンロードはいいことではないんだけど、罪に問われることはまず、ない。
結局はモラルの問題になってしまうからこそ、僕は音楽を作ったミュージシャンにお金を払いたいし、それでまたいい音楽が生まれたらなって思う。
だから僕は、お金を払わない人を非難するよりも、お金を払って音楽を聴くことを肯定したいなって思うのだ。

 

そして今日も僕は、ナンバガ再結成のニュースを見て、遠く離れたあの頃の地元の友達に「『OMOIDE IN MY HEAD状態』のライブアルバムまじやべーよな」、とLINEで語り合うんだ。